火風火の首領と蓮夏の姫君
「ふん、ふふーん」
鼻歌交じりに息を弾ませながら、軽快なステップを踏む足音。年季の入った石包みの階段をタンタンとリズミカルに駆け上がって行くと、目の前に広大な海が見えた。
もうじき日が暮れる。普段ならば、地平線の彼方に沈む鮮やかな夕陽が見られる時間帯だ。
空と海が徐々に赤と青のグラデーションに染まる幻想的な瞬間。もしかしたら、今ならあの海の遥か向こうに絶海の孤島、緑焔が見えるかもしれない。期待に胸を膨らませながら、少女はそのまま一気に階段の最上段まで登り上げた。
「わー、やっと着いたー!」
ザザーっと海岸に波打つ潮騒の音。肌に心地よい風。辿り着いた先で大きく深呼吸をすると、まるでこの絶景を独り占めしているかのような贅沢な気分になれる。
「今日は、僕の勝ちだね。お兄さん」
銀色の髪を風になびかせ、お気に入りのカラフルな装飾品が施された薄紫色の帽子を片手で押さえながら、少女はニカッと笑って振り返った。
彼女の名は、紅月。火眩の東方に位置する火を祀った太古の国、蓮夏帝国の第二皇女である。
小柄だが、男勝りで人懐っこく、剣技や交渉術などの商戦が得意らしい。おまけに露店に並んだいわく付きの魔導器の真偽をも容易に見破れるほどの目利きの達人でもあった。
「フン、相変わらず身軽なガキだな。体力底なしか?」
大荷物を背中に担ぎ、ゆっくりと歩を進める同行者の男、天元は、少し離れた所から恨めしそうに彼女を睨んだ。半月前に火眩の砂漠で行き倒れていた紅月を偶然助けたことがきっかけで、彼らは旅を共にすることになったのだ。
「へへっ、こう見えても僕は皇女だよ。運動神経には自信があるんだ。昔、皇家で鍛えられたからね」
得意そうに鼻を鳴らす紅月の言葉に、天元は「チッ」と舌打ちをしながら、ドカッと豪快に地面に腰を下ろした。彼女が蓮夏の姫君であるという事実はあまり知られていない。
「ケッ、毎日食って寝て遊んでばかりのヒヨッコが言うじゃねぇか」
憎まれ口を叩きながら、腰にぶら下げた革袋を取り外すと、ゴクゴクと勢いよく水を飲み干した。
紅月がかつて護身用にあらゆる武道を習ったという皇家は、彼ら天元旅団火風火にとっても、非常に馴染み深い存在だったのだ。
何しろ、火眩で最大の標的である。過去に何度も屋敷の宝物庫に押し入っては、皇家の護衛と熾烈な戦いを繰り広げたものだ。
しかしながら、今は彼らや猫猫との間に秘密裏に締結された特殊協定のせいで、うかつには手を出せないのが実情だった。
気に入らねぇが、すべては火風火の創始者であるアネゴが決めたことだ。逆らえばきっと面倒なことになるだろう。
そう思って、天元は黙っていた。厄介事に首を突っ込むとロクなことがないのは、普段の生活で確信済だ。
「ねぇ、天元。今日はどこに宿を取るの?」
しばらくすると、紅月がタタタッと傍に駆け寄って来た。無邪気な笑みを浮かべながら、のんきな口調でそう聞いて来る。いつの間にか、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「……」
天元は呆れ顔でジロリと彼女を睨んだ。まったくこのガキは……。まだ何も分かってねぇみてぇだな。
「バーカ。そんな金あるかってんだ。野宿に決まってんだろーが」
「えー!?」
天元の答えを聞いた紅月は、盛大に抗議の声を上げた。周囲にぞろぞろと他の火風火の構成要員たちが戦利品を担いで集まって来る。
「何でだよー! 僕、今日こそは温かいベッドでゆっくり眠れるかと思ったのにー!」
もう三日も続けて暗い森の中で野宿してばかりなのだ。さすがにそろそろまともな場所で休みたいと思うのは当然のことだろう。
「あのなぁ……!」
天元はピクピクとこめかみを震わせて怒声を上げた。
「誰のせいだと思ってやがる。大体、てめぇが調子に乗って義賊の真似事なんかするからだろーが。せっかく手に入れた財宝を根こそぎパァにしやがって」
「だって、だって、船長なら絶対そうするからって雪嶺ちゃんが言ってたんだもん! だから、僕、それに倣っただけだよー!」
「はぁ!? チッ、あの女、余計なことを!」
昼間の騒動を思い出して、天元の苛立ちはピークに達した。
麗嵐が所有する海賊船で操縦士を務める雪嶺とは昔からの腐れ縁であり、同胞だ。一瞬、彼女の船に乗せてもらうという案も浮上したのだが、その考えは瞬く間に消え去った。
あの船は、たとえわずか数分間乗船するだけでも莫大な金が掛かるのだ。ただでさえ、麗嵐のアネゴには借りがある。間違っても「今晩、船に泊めろ」などと口走れば、たちまち雪嶺から法外な金額をぼったくられるに決まっている。
まったく、どいつもこいつも金、金、金……。お陰で万年金欠状態だ。
「とにかく! てめぇも火風火に居座るつもりなら、いい加減それくらいの常識は理解しろってんだよ」
天元は強引に持論を押し付けると、弥実に野営テントの設置と夕飯の仕込みを始めるよう指示していた。
今の火風火は、現状では二つの勢力に分かれていた。陸上を拠点に活動する天元旅団と、海上を拠点に活動する麗嵐海賊団。どちらも母体は一つだ。
そして、まさかお尋ね者の自分たちがわざわざ人目に付くような場所に寝泊まり出来るはずがない。玉珠鎖の精鋭である特殊犯罪掃討部隊、呉乃に見つかったら厄介だ。
紅蔦の異名を持つ呉乃の総司令官・黎明とは、過去に何度か派手にやり合ったことがある。犯罪掃討を掲げる奴の猛攻によって、アネゴは昔、左眼に相当な深手を負ったらしい。
出来ることなら、今は呉乃の連中に目を付けられるような真似は、極力避けたいところなのだ。
「もう、天元ってばー!」
「うるせぇな。いいからてめぇはさっさと向こうの川で水汲んで来い。晩飯抜きにするぞ、コラ」
「むぅー!」
どうやら新米の紅月が火風火の掟や鉄則を完全に理解出来るようになるまでは、まだまだ時間が掛かりそうだった。
「そんなことより、酒だ、酒だ。今夜は全額紅月の奢りだぜー! てめぇら、好きに飲み食いしやがれー!」
「うおぉぉぉー!」
天元の豪快な掛け声に沸き立つ会場の空気。乾杯の雄たけびが響き渡る。ようやく待ちに待った酒宴の始まりだ。紅月は目の前が真っ青になった。
「え!? ちょっと、待ってよ、皆! 僕、そんなこと一言も言ってな……!」
「よっ! 太っ腹だなぁ、お姫さんよぉ!」
「さぁさぁ、お前さんも飲め、飲め。ホラ、オレンジジュースだぜ」
「むぐっ……!」
ここで紅月に酒を勧めない辺り、彼らが本当はただのならず者の集まりではないことがわずかに垣間見える。だが……。
「ちょ、みんな、待っ……!」
紅月はジュースとお肉と大量の料理の山に囲まれて、すっかり身動きが取れない状態になってしまっていた。
いつの間にか周囲に何本もの大きな樽酒がズラリと並べられている。どうやら彼らは本気でその場で酒盛りをする気満々のようだ。
「天元、いいのか? 助けなくても……」
ぱっと見、巨漢に襲われているかのような怪しい絵面の被害に遭う紅月を心配する弥実だったが、天元は丸っきり意に介していないようだ。
「あ? 別にいいんじゃねーか。アイツらもただじゃれてるだけだろうからなぁ。放っとけって」
「いや、どう見ても悪酔いしているだろう。仮にも蓮夏の皇女に対してあのような無礼な真似を……」
「弥実」
天元は低声で眉をひそめた。少し離れた小高い丘の上に用意された首領の特等席からドサッと何かを投げて寄越す。
「これは……?」
「さっき、雪嶺が持って来た。昼間、あのガキが作った借金の束だ。これでまた一つ、アネゴに借りが出来ちまったってわけだ」
莫大な金額が書かれた火風火宛の請求書の山。こんなアホみてぇな高額を見積もって来やがるのは、絶対にアネゴの指示じゃない。雪嶺の仕業だ。
天元から渡された書類を見て、弥実は思わず眩暈と立ち眩みがしたような気がした。
「こいつはあくまでも紅月の借金だ。あのガキがてめぇで巻いた種なら、てめぇで処理するのが筋ってもんだろうが……」
天元はチラっと遠目に紅月を見やってから、豪快に酒瓶を空けた。
「アイツは金の生る木だからな。手っ取り早く雪嶺を黙らせる方法は一つしかねぇ」
俺が欲しい獲物は、何も皇家の宝物だけじゃねぇ。もっとでかいお宝の秘密だ。
「せいぜい上手く利用させてもらうぜ」
昔、雨春の野郎から聞いたことがある。蓮夏の第一皇女にのみ受け継がれる伝説の特異魔法。言ノ葉の存在を……。
言霊呪縛の使い手であるこの俺が、まさかそいつを手に入れられないはずはねぇからな。
「噂じゃ、そのお宝をどこの馬の骨とも分からねぇ連中が狙っているらしい。邪魔する奴は誰だろうと、片っ端から蹴散らしてやるぜ」
「なるほど、名案だな」
麗嵐に借りを返すためだけではない。蓮夏の皇女も同時に救えるというのは朗報だ。
「好きにすればいい。お前の自由だ。ただし……」
弥実はふと初めて天元に出会った頃のことを静かに思い出していた。かつての自分が霧賀の「樹隠」から火風火の「弥実」に名を変じた理由もまた、天元旅団火風火の義賊としての信条に惹かれてのことだった。
「くれぐれも蓮夏の皇女を困らせるような真似はするなよ。天元」
「ケッ! 誰があんなヒヨッコ……。俺はガキには興味ねぇっつーの」
尚も悪態を付きながら、天元はフラッと立ち上がった。辺りには空になった酒瓶が多数転がっている。向かった先は当然、酒宴の中心だ。
「まずはアイツの姉だ。あのガキを使って、今度は蓮夏のお宝を奪う。最後まで付き合えよ。弥実」
「やれやれ。忙しくなりそうだ」
しばらくして、ふと周囲がいつの間にか静かになっていることに気が付いた。
もう夜中の一時を回っている。さすがに子供がこんな時間まで起きているのは酷な話だろう。
弥実はとりあえず紅月にタオルと寝袋を用意してやることにした。
しかし……。
「お兄さーん!」
遠くから紅月が両手を振って二人を呼んでいる声が聞こえて来た。
「ジュースと鹿の肉、おかわりぃー!」
いつの間にか周囲に並べられていたはずの料理がすべて空になっていた。先程まで彼女に強引に絡んでいたはずの火風火の男たちは、皆全員その場に寝転がって酔い潰れている始末だ。
「へへ、この人たち、もう皆寝ちゃったからつまんないよー。お兄さんたちもさ、早くこっちに来て遊ぼうよー。ほら、見て。あの夜景! きっとあの灯りのどこかに僕のおうちも見えるはずだよー」
「……」
弥実は手に持っていた寝袋をバサッと落として硬直した。まさか大の大人が揃いも揃って、カタギの小娘に手玉に取られるとは、誰にも想像出来ない珍様であろう。
その場で酔っ払ってうなされている巨体の男たちよりも紅月の方がよっぽど元気そうだった。
「チッ、何だよ、てめぇら、だらしねぇなー。それでも火風火の一員かよ」
天元は呆れたように頭を掻きながら、今度は葡萄酒が入った木樽を開封した。甘く豊潤な香りが辺り一帯に立ち込める。
「オイ、起きろ。飲み直しだぜ」
「うぇっぷ! お、おかしらー、もう俺ぁ飲めませんってー」
「勘弁してくだせぇよ、お嬢ー……」
どうやら彼らはまだ夢の中で酒の海に溺れているらしい。天元はやれやれと言わんばかりに溜息を付いた。
「さすがだな、天元。どうやらあの娘、本当にただものではないようだ」
弥実は改めて紅月のいろいろな凄さに感心するも、明日の朝食の材料がもうほとんど残っていないことに頭を悩ませていた。やはり自分の考えは甘かったのだろうか。
「フン、だから言ったじゃねーか。アイツは……」
金の生る木だ。そう言いかけて、天元はふとしばしの間を置いて考え込んだ。目の前の現実を見据えて、冷静に分析する。
「いや、違うな。アイツは、金の生る木っつーよりはむしろ……」
「ねぇってばー! 僕のお肉、まだー? おなかすいたー!」
「ただの食い意地が張ってるだけのクソガキだぜ」
「……」
こうして二人は究極に身も蓋もない結論に至ったのであった。
天元旅団火風火と蓮夏帝国第二皇女の果てしなき借金完済を目指す旅が今始まる。
Fin.
2022.8.20
紅月が火風火にもたらした借金の総額は、一体いくらだったのでしょうか。
皇家の未来を思えばこそ > Top < 相性と愛称