相性と愛称

「オイ、菓子女」
 ある日の夕方。昨日の任務の報告書をまとめていた寧々菓は、ふいに上官の黎明から声を掛けられて作業の手を止めた。
「はい?」
「お前、前に俺に『菓子女』って呼ばれるの、嫌だとか言ってなかったか?」
「え?」
 呉乃の本部にいる間は、基本的に私語は厳禁。任務やデスクワークの時も無駄話はご法度であった。そんなことをすれば、たちまち黎明から厳しい罰が下されることは必至だ。嫌がらせという名のペナルティーが。
「な、何ですか。いきなり」
 思わず、何かお説教でもされるのではないかと身構えてしまった寧々菓だったが、どうにも拍子抜けしてしまう。これまで散々部下にそんな鉄の掟を強いて徹底させていた呉乃の総司令官が、まさか突然そんな雑談めいた話を振ってくるとは。まったくもって予想だにしない展開だった。
「それなのに、最近じゃ、特に何の反論もせずに普通に受け答えしてんじゃねーか。一体どういう心境の変化だ?」
 黎明は愛用のティーカップに注がれたブラックコーヒーを一口飲んでから、コトンと机の上にそれを置いて、寧々菓の返答を待った。蓬生と杏は任務で不在。雛菊と高遠は玉珠鎖の副官である桐流との打ち合わせで席を外していた。つまり、今この部屋にいるのは、黎明と寧々菓の二人だけということになる。
「そ、それは……」
 寧々菓はしばし口ごもりながら、チラっと黎明の顔を見た。彼は楽しそうに頬杖を付いたまま、ニヤニヤとこちらを見つめている。その様子になぜか一抹の不安と不満が募るのを感じた寧々菓。
 これ、今普通に答えてもよいのでしょうか。私が詳細を語り始めた途端「私語は慎め。菓子女」などと、一方的に怒られやしないだろうか。ここだけの話、黎明とはそういう人間なのだ。
「どうなんだ?」
 答えを急かすように、黎明が沈黙を破る。常日頃からの理不尽なやり取りを思い出し、寧々菓は尚もジッと無言のまま考え込んでいた。


 二人の間にちょうど向かい合うような形で並べられたデスクの上には、いつも山のような書類が積み上げられていた。呉乃の任務は非常に多忙であり、かつ過酷なものばかりだ。日々世界各国の犯罪掃討の激務に追われている。当然、報告書も雑多に量産されていくわけだ。
 そして、それを毎日終業時間前に玉珠鎖の長である地影に提出出来るような状態にすることが呉乃総司令官である黎明の主な仕事の一つだった。
 普段、残業や休日出勤など滅多にしない完璧時間内労働主義者の彼が、職務中に余計な話をしている暇などないはずだ。それなのに、この質問。まるで寧々菓の反応を試すような問いかけ。不審に思わない訳がない。
「だ、だって、黎明さん、私がいくら嫌だって言っても、絶対止めてくれないじゃないですか」
 これが正しい判断かどうかは分からないが、寧々菓は今しがた精一杯頭を悩ませながら導き出した答えを慎重に語り始めた。
「私がいっつも名前で呼んで欲しいってお願いしてるのに、これまで一度もそうしてくれたことないですし。期待するだけ無駄かなーってことも十分分かりましたし。だから、もういいんです。諦めましたから。私は別に菓子女のままで」
「ほぉ」
 やけに意味ありげな黎明の声のトーンが少し気になったが、寧々菓は毅然とした態度で心境を語った。若干ムキになっているような気がしないでもないが、それが今現在、彼女が置かれた状況なのだから仕方がない。どんなに取り繕っても丸め込まれるだけだ。
 これまで何度もそんな押し問答を繰り返しては玉砕してばかりいたのだ。ここは強気な態度に徹するのが最善策だろう。そう判断した寧々菓は、わざと何も気にしていないかのように振舞ってみせた。再度、報告書の作成に意識を戻そうと試みる。
「何だ。そうなのか。残念だなー。お前が望むなら、今日は特別に本名で呼んでやってもいいかと思ったんだが」
「え!?」
 黎明から返されたその言葉は、寧々菓にとってまったく予想外の返答だった。思わずぴょこっと椅子から飛び上がってしまう。作業に集中しなければならないのに、気が散ってそれどころではない。むしろ期待に胸を膨らませそうになるのを必死に堪えるのが精一杯だった。
 そんな部下の様子を眺めながら、黎明は不本意そうに両手を頭上にかざし、わざと遠くを見るように大げさな溜息を付いてみせた。
「そうか、そうか。菓子女のままでいいか。せっかく俺が部下であるお前の意思を尊重して、己の考えを改めようかとも思ってはみたが……。ま、当の本人がそうまで言うなら、俺は素直にそれに従ってやった方がいいのかもしれねぇなー」
 何とも意味深な口ぶりで、時折寧々菓の反応を楽しむかのような視線を向けてくる。いつにも増して意地悪な態度。絶対に本心じゃないだろうと断言出来る。
「なっ、何ですか、それ! わ、私は別にそういう意味で言ったんじゃな……!」
 たまらず抗議しようと声を張り上げた瞬間、黎明がすかさず寧々菓の反論を遮った。
「じゃ、本音はどっちなんだ?」
「!?」
 しばしの間の後、黎明はスッと寧々菓の傍に近付き、赤く染まった彼女の頬に両手を添えた。もごもごと何かを言いたそうにしている寧々菓の瞳を真っ直ぐに見据えながら、確かめるように問いかける。
「お前は、俺にどうして欲しい?」
 深紅の絡み草が窓から差し込む日の光に反射して、色鮮やかに紅色に輝く。軽く触れられた指先からほのかに熱が伝わり、寧々菓はますます頬を染めた。
「菓子女って呼ばれるの、別に嫌でもねぇんだろ? もう諦めたんだもんな?」
「そ、それは……」
 ゆっくりと距離を縮められて、そのままジッと顔を覗き込まれると、ついしどろもどろになってしまう。ただその場に立ち尽くしているだけだというのに、なぜか心臓がドキドキと高鳴って落ち着かない。いろんな気持ちがグルグル回っていてどうしても上手く言葉にすることが出来なかった。
 もしかしたら、私、さっきの選択を誤ってしまったのではないでしょうか。そんなことをふと思いながら、寧々菓は思わず黎明から顔を背けた。
 黎明は寧々菓の態度の急変に僅かながらも苛立ちを覚えた。
「だったら、何でわざわざそんなにムキになって俺に突っかかる必要がある? これまで通り、自然に受け流せばいいだけだろーが。それとも、俺への当て付けで嘘付いてたってことか?」
 正論だ。私、ただ単に黎明さんに八つ当たりしてただけかもしれない。意地張って、わざと心にもないようなことを口走って、気を引こうとしただけなのかも。
「いいか? もし、心のどこかでちゃんと明確な自分の意思があるなら、それを包み隠さずに全部正直に伝えろ。ごまかすような真似はすんじゃねーよ」
「ハイ」
 厳しい口調で諭されるたびに、改めて黎明が呉乃の総司令官であることを痛感する。犯罪掃討を掲げる彼が最も忌み嫌うもの。それが不正と虚偽だ。
「それから、金輪際二度とこの俺に嘘は付かねぇって約束しろ。いいな?」
 黎明が放つ言葉の重みに気圧されて、寧々菓はただ黙って頷くことしか出来なかった。
「じゃ、改めて聞くが、お前は俺にどうして欲しいんだ?」
 尚も寧々菓の頬に触れたまま、黎明が問う。事態は再度振り出しに戻ったようだ。
「わ、私は……」
 押し黙り、キュッと唇を噛み締めて拳を握る。もしかしたら、今なら少しは素直になれるかもしれない。僅かに期待して心が逸る。
「黎明さんに、ちゃんと名前で呼んで欲し……」
 その言葉が最後まで言い終わらない内に、キーンコーン、カーンコーンと予鈴が鳴った。就業時刻終了の五分前を知らせる鐘の音だ。
 黎明は「チッ」と舌打ちをすると、指先で寧々菓の頬をギュッと抓り、そのまま左右に軽く引っ張った。
「いっ! 痛い、痛い! もう、黎明さんってば、いきなり何するんですか!?」
 勢いよくその手を振り払いながら文句を言うと、黎明は寧々菓から少し離れてキッパリとこう言った。
「時間切れだ」
「へ?」
 何が何だかよく分かっていないといった感じでキョトンとしている寧々菓を横目に、黎明はチラッと壁に掛かった時計を眺めて溜息を付いた。
 やれやれ。俺としたことがつい油断しちまったぜ。まさかもうこんな時間とはな。さすがにおしゃべりが過ぎたようだ。
「オイ、菓子女。まずはとりあえず、そこにある報告書の山から何とかしろ。このままじゃ、また今日も残業になっちまうだろーが」
 普段は滅多に職務中の私語など認めないはずなのに、今日は珍しく自分自身の気が緩んでしまったことに改めて気付いた黎明。それはきっと寧々菓と二人っきりだったから……などと、一瞬、らしくない考えが脳裏をよぎる。
 違う。そんなことは決してない。あり得ない。ただの気まぐれだ。そう思い込みたい一心で本音を隠す。
「え? あ、あの、名前呼びは? 結局どうなったんですか?」
 寧々菓が上目遣いでそんな超ド級の地雷を踏んで来る。直後、黎明のこめかみがピクリと動いた。
「はぁ? お前、この状況で何のんきなこと言ってやがる」
 いつの間にか、すっかりいつもの強引で横暴な上官の素顔に戻っていた。
「そんなことより、仕事しろ、仕事! 誰のせいでこんなに書類が溜まっちまってると思ってんだ!? まったく、この俺に余計な手間ばっかり取らせやがって」
「えー!? だって、それは黎明さんが……」
「口答えする前に手を動かせ、手を!」
「うぅ」
 あまりの理不尽さ加減に寧々菓は半分涙目になっていた。気付けば、仕事量も一気に倍増している始末だ。
 いつもそうだ。ほんの少しでも期待して近付こうとすれば、すぐこれだ。ムードもへったくれもない。
 さっきまで黎明に引っ張られていた頬が徐々に今頃になってジンジンと脈打つように鈍く痛み出した。うっすらと日が陰り、窓から西日が差し込むと、ますます寧々菓の頬は赤く染まっていく。
「これとこれは向こうの棚にしまえ。あと、こっちの本とそっちの荷物も」
「え? あ……」
 今度は上官から滝のような指令の嵐が容赦なく降り注いで来た。問答無用で襲い掛かる情報量の多さに脳が思わずパニックを起こしそうになる。
「ヒナと高遠の席にあるレポートは、俺の机の上にある玉珠鎖の調書と合わせて隣の部屋の書庫に運んでおけ。それから、この段ボールの中身は何だ? 蓬生と杏の私物か。アイツらもそろそろ任務から戻って来る頃だからな。帰って来たら、片付けさせるか。オイ、菓子女。もたもたしてたら、いつまで経っても終わらせられねぇぞ。急げ」
 テキパキと的確に指示する中で、黎明はもれなく寧々菓以外を全員本名で呼称していた。しかも、イトコの雛菊に至っては愛称呼びだ。
 寧々菓はぷぅっと頬を膨らませて彼を睨んだ。いくら何でもこの扱いの差はあんまりではないだろうか。
「ま、いつか気が向いたら、俺もお前を本名で呼んでやらんこともないが……。当分の間はお預けだな」
 さっきまで寧々菓の頬を抓っていた黎明の絡み草の手が、今度は彼女の頭をポンポンと叩いて軽く撫でる。
 まるで子供扱いされているかのようで、寧々菓はものすごく不満そうだった。
「えー、どうしてですかー! あんなに期待させておいて。それじゃ、まるで初めから私には何の選択権もなかったってことじゃないですかー!」
 究極の真相に辿り着いてしまったような気がして、思わず頭を抱えて絶望する。
「当然だろ。部下の呼称をどうするかは俺が決める。悔しかったら、俺をその気にさせてみろ」
 横暴な上官の持論こそが正論。そして、その結論が覆ることはほとんどない。それが呉乃の魔導司法官の日常だったのだ。
「もう、黎明さんってば、いつもそうやって意地悪ばかり。少しは部下に対して優しさとか労わりっていうものを持ったらどうですか?」
「チッ、よく言うぜ。お前だって、さっきまで散々『菓子女のままでいい』とか豪語してただろーが。文句ばっかり言ってんじゃねーよ」
「それとこれとは話が違いますよー!」
 威勢よく抗議しようとするや否や、目の前の山積み書類が一斉にドッと寧々菓の方に雪崩れ込んで来た。無論、避ける暇などない。
「キャッ!」
「うわっ、バカ!」
 とっさに黎明が寧々菓の身体を庇うも、二人揃って見事に書類の下敷きになる。ものすごい音が響き渡り、辺り一面はすっかり散乱した大量の紙で溢れ返った。
「いったーい! もう、何なんですか、これー!」
「お前が逐一やらかした始末書の山だろーが。いいから、さっさとそこをどけ。重いんだよ」
「なっ! 何てこと言うんですか! ヒドイ! いくら何でもデリカシーなさ過ぎですよー!」
「イテッ! 何勘違いしてんだ、お前! 重いのは始末書の山だっつーの!」
 時計を見ると、もうとっくに定時を過ぎていた。ポツポツと外の街燈が灯り始める時刻。
「チッ、また今日も残業かよ。オイ、菓子女。今夜はこの書類を全部片付け終わるまで帰らせねぇからな。覚悟しとけよ」
「そんなぁー! ……っていうか、何でまた『菓子女』呼びなんですかー! さっきまでの話の流れはー!? 他の皆さんのことはちゃんと名前で呼んでたのにー!」
 呉乃の本部に響き渡っていた寧々菓の要望は、度重なる黎明の怒声により即座に掻き消された。
「……つーか、お前はこの際、ずっと菓子女のままでもいいんじゃねーの? その方が俺も呼びやすいしな」
「はぁ? 何でですか。嫌ですよー!」
「コイツは俺だけの特権だからな。当分は止めるつもりはねぇよ。ま、いわゆる愛称ってやつだ。悪くねぇだろ?」
 寧々菓……なんて、今はまだ気恥ずかしくて呼べる気もしねぇしな。俺が面と向かって素直に自分の気持ちを晒せるのは、お前が「菓子女」だからだと思うぜ。
「もう、黎明さんの意地悪ー! それじゃ、完全に職権乱用じゃないですかー!」
 寧々菓は尚も納得がいかないようなふてくされた表情を浮かべていたが、やがて諦めたかのように唇を尖らせながら、周囲に散らかった書類の山を整理し始めた。
「ホラ、黎明さんも少しは手伝ってくださいよね。早くしないと、帰るのがどんどん遅くなっちゃいますよ」
「あぁ。分かったから、ちょっと待ってろ」
 特に重要な機密文書を先に拾い集めるよう注意してから、黎明はひとまず自分の席に戻って一息付いた。数時間前、雛菊が淹れてくれたコーヒーの飲みかけが茶菓子と一緒に机の上に置かれている。
「やれやれ。もうすっかり冷めちまってるじゃねぇか」
 さっきまでのやり取りで、何だか大幅に体力が削られたような気がするのは、きっと気のせいじゃないはずだ。
「淹れ直すか」
 これから続くであろう長い残業のために、どうせならなるべく濃い目のブラックにしようと、カップにたっぷりと焙煎豆を加えてお湯を注ぐ。普段、コーヒーを自分で淹れることなどほとんどないから、分量もよく分からない。適当だ。
「苦っ!」
 少し唇に触れただけで、思わず顔を歪めてむせ返ってしまうほどの苦みと酸味がじんわりと口内に広がっていく。いつもよりも強烈なブラックの香り。
「菓子女に淹れさせた方がよかったかもな」
 黎明は溜息を付くと、給湯室のドアの向こうで片付けに追われる寧々菓を遠目に眺めながら、何やらジッと考え込んでいた。そして、再度手元の激苦コーヒーに視線を移してニヤリとする。
「これ、アイツに全部飲ませるか」
 突然の閃きに、いつにも増して悪巧みの思考回路が冴えているのを感じる。もしや、コーヒーの効果だろうか。
「張り合いがねぇのはつまらねぇからな。どうせなら、もっと濃い味にしてやるか」
 素人目にも分かるくらい、明らかに過剰な分量の粉をバサバサと容赦なくカップに放り込む。適量とは程遠い濃さだ。そこからじっくりと極限まで苦み成分だけを抽出させていく。
 ニヤリと意味深な笑みを浮かべながら、黎明は仕事に追われる部下を気遣うようにカップを差し出した。
「オイ、菓子女。コーヒー淹れてやったけど、飲むか?」
 いつもならば、黎明の厚意を即座に不審がる寧々菓だったが、さすがに今は疲労困憊で判断力が極端に鈍っているようだ。無理もない。目の前の馨しいコーヒーの香りに誘われて、寧々菓の黎明に対する警戒はすっかり緩んでしまっていた。
「いっただっきまーす!」
 何やら異様に黒い飲み物を勢いよく口にした瞬間、寧々菓の凄まじいほどの絶叫と猛抗議の声が呉乃本部全域に響き渡った。
 そして、騒ぎを聞いて駆け付けた玉珠鎖の副官よって、黎明と寧々菓の二人はみっちりこってり絞られることになってしまったのだった。
 相性がいいのか、悪いのか。お戯れは程々に。


Fin.


2021.1.18

黎明は寧々菓にちょっかい出してる時が多分一番生き生きした顔してる気がする。
果たして、寧々菓が本名で呼んでもらえる日は来るのでしょうか。

 Top絡み草の誘惑