雨色の恋模様

「うわぁ、やっぱり降って来ちゃいましたかー!」
 桜舞う季節。四月上旬。
 仕事が終わった寧々菓は、足早に玄関の外に出て来ると、空を見上げながら大きな溜息を付いた。
「今日は、傘を持って来てないのになー」
 出掛けるときには雨など降るとは言ってなかったから。一度は手にしたお気に入りのピンクの傘をそのまま玄関に置いて来てしまったことが悔やまれる。
 この時期は朝と夕方で天気がコロコロ変わるから油断出来ない。さっきまではどんよりとした曇り空だったのだが、今は傘を差さなければ濡れてしまいそうなほど大粒の雨が降り続いていた。
「うーん、どうしよう。困ったな」
 寧々菓の家は、ここから1キロほど離れた呉乃の女子寮だった。通勤にはさほど困らない距離ではあるが、さすがに雨の中を走って帰るにはちょっと遠い。
 しばし途方に暮れてその場に立ち尽くしていると、いきなり後ろからコツンと何かに叩かれた。
「痛っ……!」
 徐々にじんわりと頭部に鈍い痛みが広がっていく。
「もう、誰ですか!?」
 勢いよく抗議しようと振り返った瞬間。
「あ……」
 小さく声を洩らし、寧々菓は慌てて口を押さえた。そこにいたのは、呉乃の直属の上官、黎明だったのだ。
「れ、黎明さん」
「菓子女。お前、いつまでもこんな所でボケーッと突っ立ってんじゃねーよ。通行の邪魔だろーが」
 相変わらずの失礼な物言いに、思わずカチンと来てしまう。
「なっ、何てこと言うんですか。私だって、別に好きでこんな所に突っ立っている訳ではな……」
「ホラ」
 直後、寧々菓の頭上をスッと黎明の腕が通過した。
「え?」
「入れよ。そんな所にいると、濡れる」
 最近、新調したばかりだという真新しい青黒い傘をパッと広げて、黎明は早くしろと促した。
 時折、彼の服の袖から見え隠れする紅蔦の絡み草が何とも色っぽくて妖艶だ。などと、不本意ながらついうっとりと見惚れてしまっている自分に気付く。
「傘、ねぇんだろ? どうせ」
「うっ……」
 図星だった。寧々菓は気恥ずかしさのあまり、思わず黎明から顔を背ける。すべてを見透かしているかのような赤紫色の瞳が、いつもの倍、意地悪く輝く。
 黎明さん、もしかして、私のために……? ずっと待っててくれたんですか?
 思わず、そんな言葉を紡ぎ出そうとした寧々菓。
 時計を見ると、もう夕方の六時過ぎ。今日は確かノー残業デーだという話を聞いていたから、黎明の性格ならばもうとっくに帰宅してしまったものだとばかり思っていた。
 呉乃の他の同僚である杏や蓬生、雛菊や高遠までもが、今日は皆終業時間とほぼ同時くらいに退庁していたようだから。
「……あ? 何だよ?」
 黎明は、尚も訝しげに首を傾げている寧々菓の方をジロリと覗き込んで聞いて来る。
「お前、まるでこの俺がこんな時間まで残ってるのが信じられねぇっつー顔してんなー。おまけに傘まで貸してくれるだなんて、一体どういう風の吹き回しだ、とかな」
「え!? い、いえ、別にそんなことはないですけど」
 慌てて、全力で否定する。この人に妙な誤解を与えてしまっては、後々厄介なことになるであろうということは、もはや長年の経験からとっくに確信済みだったのだ。
「ただ、その……今日はノー残業デーだって言ってたのに珍しいなーと思って。もしかしたら、また何か妙なことでも企んでいるのかなーなんて」
 素直に感想を述べてしまうところがいかにも寧々菓らしい。黎明は心外だな、と言わんばかりに溜息を付くと、呆れ顔でポンポンと彼女の頭を軽く叩いた。
「当たり前だろーが。部下を気遣うのも上官の務めなんだよ」
「い、痛い、痛い!」
 さっさと前を行く黎明に、寧々菓は無理やり引っ張られて行く。どうやら部下が今日傘を持っていなかったことにも上官は最初から気付いていたようだった。
「それに、こんなことで風邪でも引かれちゃ面倒だからな。お前にはちゃんと俺の仕事をすべて定時までに完璧に終わらせるっていう重大な役目があるんだから。それくらい、もっとちゃんと自覚しろよな」
「なっ……!」
 さすがに予想通りというか、いつも横暴で意地悪な黎明らしい返答に、寧々菓は頭を抱えて溜息を付いた。
「何ですか、それ。黎明さん、人を一体何だと思ってるんですか?」
「便利屋」
 満足そうにニヤリと微笑む黎明の表情を見て、寧々菓はもうすっかり二の句が告げなくなってしまった。
 何なんですか。そんな風に言われたら、もう何も言い返せないじゃないですか。
 諦めたかのように、寧々菓は黙って歩き出した。雨粒が傘に当たってポツポツとリズミカルに弾けている音がする。風に乗ってほのかに香る桜の花びらがハラハラと二人の足元に舞い落ちた。
「……つーか、そんな仕事、お前以外には任せられねぇだろ?」
「え?」
 ふと聞こえた黎明の声に、ピタリと足を止めて目をパチクリさせる。再度、頭上に彼の手が軽く触れた感覚がした。
「俺は、お前だから頼んでるんだぜ」
「私、だから……?」
 喜んでいいのかどうか分からずに、頭が混乱する。
 私だから出来る特別なこと? それはそれで、何だかちょっぴり頼られているようで、嬉しいような気もするけど……。
 でも、だからって、何でそれがよりにもよって、黎明さんの仕事の肩代わりなんですか。
「あの、黎明さ……」
 そんな心の中に浮かんだ疑問を聞き返そうと試みた寧々菓の身体を、黎明が自分の傍へと引き寄せた。
 何をされるのかと思いきや、彼はそのまま彼女の頬をギュッとつねって弄ぶ。
「いったーい!」
「ホラ、さっさと行くぞ。菓子女。日が暮れる」
 大声を上げた寧々菓を横目に眺めながら、黎明は再び歩き出した。時々落ちる雨の雫がほのかに火照った身体をゆっくりと冷やすかのように頬を伝う。
「もう! ちょっと、黎明さん! いきなり何するんですか!?」
「あ? 何って、充電」
「意味が分からないです!」
 尚も赤面したまま文句を言いつつも、寧々菓は肩がぶつかるくらいの近距離で黎明の傘に入っていた。
 優しい抱擁だとか、甘い口付けだとか、そういうラブロマンチックな展開には決してならない。それでも、隣を歩くその感覚が妙に心地よくて、なぜか心臓の鼓動だけは不思議と高鳴るのだった。
「俺は、お前だから頼んでるんだぜ?」
 先程の黎明の言葉が、何度も頭の中で呼応する。
 私、ちょっとは黎明さんに認めてもらえてるってことなのでしょうか。ただの呉乃の準二等級の部下としてだけではなく。
「オイ、どうした? 菓子女。早くしねぇと、置いてくぞ」
「え、あ、はい! すみません。今、行きます!」
 そんな想いを秘めながら、寧々菓は再び黎明と並んで歩き出した。
 二人の行く先には、雨で静かに舞い散った桜の花びらが、まるで真新しいピンクの絨毯のように色鮮やかに広がっていた。


Fin.


2020.4.5

雨の日に桜が散った後の地面を歩くと、靴底に桜の花びらが付くんですよね。
黎明にとって、寧々菓を弄るのは充電らしいです。

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