雨とお菓子と上司と部下と

 ただ、引き止めておきたかっただけなのかもしれない。


「菓子女」
 呉乃の本部から少し離れた先にある玄関を出た所で、ジッと立ち尽くしている一人の女。そいつは、俺の部下の準二等級だ。
 名前は、菓子女。コイツを形容するには、それで充分である。
 もちろん、本名ではない。この女にはちゃんと「寧々菓」という名前があるのだという。
 だが、俺がコイツをそう呼ぶことは滅多にない。公の場であれば話は別だが、そもそも今は就業時間外だ。規則に縛られる理由はない。
 せいぜい妥協しても、ネネ……とかだろうか。まぁ、そんなことは別にどうでもいいのだが。
 終業のチャイムとほぼ同時くらいに勢いよく部屋を飛び出したわりには、なぜかその場から一向に動こうとしないので、俺は少し気になってしばらく遠くから彼女を眺めていた。
「うぅ、困りました」
 空を見上げながら、寧々菓はボソッと呟いた。
「今日、傘持って来てないですー」
 ポツッポツッと地面に当たる大粒の雨。どうやら、たった今、降り出したらしい。
 そういえば、今日の天気予報は夕方から降水確率100パーセントだと朝のニュースで言っていたのを思い出す。
 ザァー……。
 途端に辺りは湿気が多くなり、何も見えなくなってしまった。


「オイ、菓子女」
 しばらくして、俺は彼女の背後からそっと近付いて声を掛けた。雨の音が耳に響いていても、日頃から人の気配には敏感な女だ。すぐに気付くだろう。
「何やってんだ? こんな所で」
「れ、黎明さん!?」
 振り返った寧々菓の口には、昼間売店で買った弁当の残りの大きなパンケーキがギューギューに押し込まれていた。それを慌てて飲み込もうと手に持っていたミルクを強引に流し込んだせいで、苦しそうにゴホゴホとむせ返っている。
 本当に何をやっているんだ。この女は……。
「べっ、別に、何でもないですよ。放っておいてください」
 もぐもぐとパンを頬張りながら、寧々菓は言った。
 そっけない返事は、いつものこと。毎回、判で押したように同じ反応を返される現実にフッと軽く溜息が洩れた。
「あのなぁ、今更そんな必死こいて隠す必要なんかねぇだろーが。とっくにバレてんだよ」
 呆れ顔で呟きながら、彼女の方に歩み寄る。最近は、なぜかコイツをからかって遊ぶのが俺の密かなる楽しみの一つになっていた。
「……つーか、お前、こんな時間に間食かよ。相変わらず食い意地が張ってんなー」
「余計なお世話ですよ」
 寧々菓は口の周りにたっぷりと生クリームを付けたまま反論した。ミルクを一気に飲み干してから、ジロリと俺を睨み付けて仁王立ちする。
「そもそも、一体誰のせいだと思ってるんですか?」
「あ? 誰のせいだよ」
 俺にはまるで見当も付かなかった。当然だろう。
「黎明さんの無茶振りのせいで、今日なんてほとんどお昼をゆっくり食べてる時間がなかったんですからね。それを他人事のように……」
「何言ってやがる。元はと言えば、お前が仕事で盛大に凡ミスなんかやらかしたのが原因じゃねーか」
「うっ……」
 常日頃から清廉潔白なこの俺に堂々と濡れ衣を着せるとはいい度胸である。
 尚も頬を膨らませたまま、不満そうに唇を尖らせる彼女の額を指で軽く小突きながら続けた。
「だから、俺がわざわざお前の尻拭いをしてやっただけだろーが。他の連中にお前の始末書とか書かせてやったりしてな。お陰で大したお咎めもなく、定時で上がれたんだ。いい経験になっただろ?」
「それは尻拭いって言わないですよ。責任転嫁って言うんです」
 ムッとした表情を浮かべながら、再度腕時計に目をやる寧々菓。はて、一体何が違うというのか。
「相変わらず人使いが荒いんですから」
 そんな他愛もないやり取りを続けるのは、いつものことだった。俺は先程からずっと気になっていた疑問を口にする。
「それにしたって、何もこんなバス停のど真ん中で堂々と菓子パンを貪ってなくてもいいだろーが。食うならせめて寮に戻ってからにしろよ。そんなに腹減ってんのか?」
「当然ですよ。バスを待つ時間だって、私にとっては貴重なエネルギー補給の瞬間なんですからね。誰にも邪魔はさせません」
「はぁ? 何だ、そりゃ」
 俺は面白くなさそうに頭を掻きながら、菓子女の隣で空を見上げた。雨は一向に止みそうにない。
 しばらくは、コイツとこのまま二人っきりか。そう思うのも、悪い気はしなかった。


 数刻後。
「帰ります」
 押し黙っていた彼女が、ふいに口を開いた。時計は、もうすでに夜の7時を回っている。
 しかしながら、雨はなおも降り続いていた。
「バス、来ましたから」
 急くように身体を伸ばすと、荷物を持って空の下に出た。駅前まで送迎してくれるバスには、ちらほらと他の隊員たちが乗っているようだ。
「オイ、ちょっと待て」
 ふいに、俺は菓子女の腕を後ろからギュッと引っ張り、動きを封じた。その行為は、ほとんど無意識だったに違いない。
「あっ!」
 突然の出来事に驚いたのか、寧々菓が首に巻いていたマフラーが勢いよく宙を舞った。それを追いかけている間に、バスは静かに走り去って行ってしまう。
「ちょっ、待ってくださーい! 乗りますー!」
 寧々菓は、バスを呼び止めようと走り出すが、あいにく彼女の声が届くことはなかった。残されたのは、俺たち二人だけ。
「もう、何するんですか、黎明さん! バス、行っちゃったじゃないですか!」
 ものすごい勢いで振り返るや否や、彼女は俺の方にカツカツと歩み寄った。いつの間にか、雨はすっかり小降りになっていた。もうじき、止みそうだ。
「あ? 何言ってるんだよ。お前はバス通勤じゃねぇだろーが。いつもはすぐそこの寮から歩いて来てんじゃねーか」
「今日はこれから駅前の時の見る夢まで新発売のショコラトリュフを買いに行く予定なんですよ。あと、期間限定の抹茶苺大福も。それを買わなきゃ、帰れないです」
 知らねーっつーの。……っていうか、まだ菓子食う気かよ、この女。
「どうしてくれるんですか。このままじゃ、次のバスが来るまで、ずーっとここで待たなきゃいけないじゃないですか。万が一売り切れちゃったら、黎明さんのせいですからね!」
 勝手なことを叫びながら、寧々菓は不機嫌そうに腕組みをしている。時計は、いつの間にか夜の8時近くを示していた。次のバスが来るのは、確か20分ほど後のことだ。
「はぁ? 別にいいじゃねーか。わざわざ菓子なんか買いに行かなくても。お前、いつも大量に持ってんだろーが」
「それとこれとは話が別です」
 何が違うのか、俺にはさっぱり分からなかったが。
「まったくもう、今日はホントにそれだけが楽しみで1日中お仕事頑張ったっていうのに。これじゃ、せっかくの予定が台無しですよー」
「だったら、このまま俺に付き合って残業すればいいんじゃねーの? 呉乃の本部に戻るための魔方陣、ここからすぐ近くだし」
「は?」
「この間、お前がやらかした仕事のミスを一部始終、地影に報告するための書類が確か大量に俺のデスクに山積みになっているはずだからな。それを片してりゃ、少しは今後の仕事効率も上がるだろ」
「なっ……」
 真っ赤になった寧々菓の頬に、軽く手を添えてニヤリと微笑む。
「ホラ、行くぞ」
「え、あ、ちょっ、待っ……!」
 そう、すべては計算通り。
 彼女をただ単に、自分の元に引き止めておくための口実。
「逃げんなよ。菓子女」
 色鮮やかな深紅の蔦模様が、俺の感情に反応して意地悪く光る。素直になれないもどかしさが生んだ、そんな雨上がりの夜の景色。
 俺の言動で一喜一憂するこの女の反応をもっと近くで見ていたくて、俺は柄にもなく策を弄した。このまま夜が明けるまでずっとコイツと一緒にいるのも悪くないかもな。
 なんて、そんなことを思いながら、俺は菓子女が手にした菓子袋から無理やり小さないちごチョコを取り上げて、それを意地悪く頬張るのだった。


Fin.


2020.1.30

黎明と寧々菓の間には、多分恋愛感情は皆無だと思うのですが……。
それでも、なんかそれっぽいお話を書いてみたかったのです。

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