火風火と猫猫

「……?」
 ふと気が付くと、視線の先には天井が見えた。
 うっすらと薄紅色の光が差し込んでいる。淡くぼんやりとした景色。どこだろう。まるで覚えがない。
「ここは……」
 先程から感じる左腕の鈍い痛み。だが、それ以上に気掛かりなのが、自分が今置かれたこの異様な状況だった。
 特に拘束されているわけではないのに、手足の自由が利かないようだ。なぜだろう。なぜ自分はこんな所にいるのだろうか。分からない。
 紫色に腫れ上がったその腕はもはやほとんど感覚がない。まるで時が止まったかのように、脳内回路が正常に機能していないようだった。頭が痛い。
「目が覚めたか? 小娘」
 突然、何者かの声が部屋に響いてドキッと心臓が高鳴った。脈打つ鼓動がどんどん速くなっているのが分かる。身体が小刻みに震えている。
 少しずつ歩み寄る影にとっさに反応して身体を起こそうとするが、上手く動けない。この感覚は、恐怖心だろうか。いや、違う。
 僅かに気配を悟る。危険、ではなさそうだ。
「貴方は? ここは一体……」
 先程まで上手く動かせなかった手足が徐々にいつもの感覚を取り戻してきた。腕の痛みはまだある。しかし、目が覚めた時ほどの激痛ではなかった。
 床に触れている身体の一部にゆっくりと力を込めながら上体を起こすと、震える両手を強く握り締めたまま、その声に向き合うように顔を上げた。
 ほのかに甘い匂いが漂ってくる。何だろう。この感じ。この独特な香りには覚えがあった。確か、意識を手放す前に少し。ほんの少しだけ、その心地よさにまどろんでいたような気がする。この香りは、あの煙管の……。
「その様子では、何も覚えていないようだな。自分が今、なぜここにいるのかも、理解していないようだ」
「?」
 目の前に立つ影が片手に持つ煙管。あれが確かこの香りを放っているはず。それはおぼろげながら覚えていたが、それ以外は何も分からなかった。
 眼前の影に見降ろされながらも、何も反応出来ずにいる自分がもどかしい。
「まぁ、無理もない。幻煙魔香は稀に生死さえ操る。今のお前は、九死に一生を得たようなものだ。目が覚めただけでも幸運だと思え」
「……」
 妙に圧倒されるその男の言葉に、キュッと唇を噛み締めながら俯いた。首を傾げて周囲を見渡すも、答えは出て来ない。静かな部屋に少しずつ、足音が迫る。
「楊好」
 ガチャッと扉が勢いよく開いて、華やかな女性が声を荒げた。
「まったくお前ってやつは、どうしていつもそんなに威圧的なんだい?」
 開口一番、豪快で威勢がいい。よく通る声だ。
 派手な装飾品を多数身に着けた艶やかな容姿。長身でスラリとした長い脚。彼女が歩を進めるたびに、鮮やかな赤毛がふわりと宙を舞った。
「私がいいと言うまで、この部屋には入らないようにって、念を押したはずだよ」
 鈍く銀色に光るドクロのエンブレムが大きな黒い帽子に美しく映える。部屋の空気が少しずつ海の潮騒と木々の匂いに変わっていく。まるでふわふわとした夢のまどろみから覚めていくようだった。
「フ、物音がしたのでな。様子を見に来てやっただけの話だ」
 楊好、と呼ばれたその男は、突然やって来たその女性に驚く様子もなく、さも当然だと言わんばかりに返答した。
 少しくすんだ赤い髪が頭頂部でゆったりと結わえられている。所々無造作に解けているその姿が何とも色っぽくて、整った顔立ちが薄暗い室内でも十分に艶やかに見えた。
「船長が留守の間に、何も知らない小娘共に船内でむやみに暴れられては面倒だろう?」
 悪びれもなくそう付け足してから、彼はチラリと私を見た。片手で煙管を弄びながら、ニヤリと口元を緩く綻ばせて微笑する。
 ほんの一瞬、僅かゼロコンマ数秒だけ目が合って、思わずドキドキしてしまう。なぜだろう。動けない。逸らせない。視線が。
 彼の青く透き通るような瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えたのも束の間。
「はぁ、相変わらずの減らず口だね」
 船長の言葉にハッと我に返り、現実に引き戻された。
「火眩有数の名家と言われた皇家先代の息子だというから、もう少し真っ当な男だと思っていたんだがね」
 皇家……? 聞いたことがある。確か、退魔霊武術のお家柄。
「俺はいい人間、ではないからな。最も、お前たちのような輩と行動を共にしている時点で、すでにそんなこと、理解されているものだと思っていたが」
「あらためて認識したよ。さすがは猫猫の長だ」
 肩を竦めて、船長は軽く笑みを洩らしてみせた。
「まおまお……?」
 私一人が聞き慣れない単語に困惑してしまった。
「すまなかったね。お嬢さん。その男は天邪鬼なのさ。気にしないでおくれ」
「あ……」
 突然、自分に話を振られ、私はとっさに口ごもった。何を話せばいいのか分からず、必死に思考を巡らせる。
「天邪鬼、か。心外だな。俺は単に思ったことを口にしたまでだ」
 私のことなどすっかり蚊帳の外だとでもいうように、楊好は再び船長に向き直った。
 改心するような素振りなどはまるで見せない。先程、ほんの一瞬だけかち合った妖気な視線は、そのままスッと窓の方へと移動した。
「よく言うよ。とにもかくにも、アンタがしゃべると話が物騒になるから、少し黙ってておくれ」
「フン」
 楊好が黙ったところで、私はやっと言葉を紡いだ。
「あの……」
 その先は声が震えて出て来なかったが、それでも、私の存在を彼らに再認識させるには十分だったようだ。
「安心しな。ここは火風火の海賊船内だよ」
 目の前に立つ女性は、明るく穏やかに微笑みながら、軽く身体を屈めて私の方に顔を近付けた。
「私は麗嵐。この海賊団を率いる船長さ」
 気丈な振る舞いでそう会釈する彼女の視線からは、優しく人情味に溢れた温かさが伝わってくる。それを見た私は、何だかほんの少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
 だが、それも束の間。
「かふか?」
 恐る恐る言葉を紡ぐ。
「かいぞく?」
 彼女の左眼を覆う眼帯が何だかいかにも海賊のそれっぽくて、思わず身が慄く。
「私たち、海賊に捕まったの?」
 背中に僅かに悪寒のようなものが伝わって来た。徐々に血の気が引いていく感覚。どうやら、私の推測は正しかったようだ。
 やっぱり。この人たち、そういう人なんだ。
「そういえば、錬花がいない。錬花は?」
 生まれたときからずっと一緒にいた私の半身。双子の姉の姿が見えないことに不安と焦りを隠せなかった。硬直した身を奮い立たせるように、必死で拳を握り締めながら問う。
「やれやれ。今、この小娘を怯えさせてるのは俺ではなく、むしろお前の方ではないのか? 麗嵐」
 その疑問に最初に反応したのは、楊好だった。呆れたように溜息を付きながらも、彼の声音はまるで私の挙動を楽しんでいるような口ぶりだ。
 海賊、などと自ら名乗れば、より一層の警戒心が強まるのも当然だろう。それを分かっていて、あえてそんな言動を誘発するかのようなことを言うなんて……。
 この人、絶対に面白がっているに決まっている。私はキュッと唇を尖らせて、無言で抗議の視線を向けた。
「ハハ、別に怯えさせているつもりはないさ」
 麗嵐は別段気にした様子もなく、終始笑顔のまま軽く返した。
「細かいことは気にするなって」
 楊好の肩をポンポンと軽快に叩いてみせると、その直後、彼の端麗な顔がピクリと引き攣る。僅かに漏れ出す殺気にも似た空気。思わず身体が震えた。
 私がいつも肌身離さずに持ち歩いていた錫杖がなぜか見当たらなくて焦る。どうしよう。あれがないと……。
「それより、アンタたち、一体どこから来たんだい? 見慣れない武器を持っていたね」
 いつの間にか、麗嵐が私の錫杖を片手に持ちながら、それを眺めて尋ねてきた。黄金に輝く美しい相棒は、状態異常などの負の付帯効果をもたらすことが出来る優れものだ。
「教えて。錬花は、どこ?」
 とっさに錫杖を取り返そうと手を伸ばしながら、身を乗り出すように尋ねた。
「錬花? あぁ、あの威勢のいい小娘のことか」
 麗嵐は少し考え込んでから、思い出したかのように楊好を見やった。
「あの女なら、無事だ。向こうで傷の手当てを受けている」
 視線で私の意識を部屋の奥へと誘導すると、時折確かに錬花の声が聞こえて来た。何を話しているのかは分からなかったが、いつもと同じテンションのようで安心する。
「お前よりも損傷がひどいようだったからな。念のために、と、俺が指示しておいた」
「傷?」
 意外な回答に思わず唖然としてしまう。
「そういえば、さっきまでの腕の痛みが徐々に消えてく。何? これ」
 不思議なことに、先ほどまでものすごい激痛に襲われていた身体が少しずつ軽くなっていくような感覚に気付いた。痛みだけではない。変色していた皮膚の状態も目が覚めた時よりも明らかによくなっているようだった。
「一時的な応急処置だ。俺が開発した、な」
 楊好は私を見つめながら、静かに話し始める。
「特殊な薬草で化膿を抑えた上で、痛み止めを塗ってある。直に腫れも引くだろう。あまり動くな。傷口が開くぞ」
 確かに、少し動いただけでズキッと患部に鈍い痛みが走った。完治しているわけではないのだから、まぁ当然か。
「これ、貴方が手当、してくれたの? この毛布も?」
 気が付けば、私の足元には見慣れない布が掛けられていた。肌触りがよく、もこもこした薄紫色のファーだ。ギュッと両手で握り締めると、ほのかに優しい温もりが伝わって来る。温かい。
「俺はこう見えても薬売りだからな。適切な処置くらいは施せる」
 当然だとばかりに、ニヤリと怪しげな笑みを浮かべた。
「まぁ、俺の気まぐれを信じるか、でなければ、自力で完治させろ」
「薬売り……」
 小さく呟いた私の言葉を麗嵐が豪快に笑い飛ばした。
「アハハ、ま、アンタがこの男の言葉を信じられない気持ちは、分からなくもないけどねぇ。何て言ったって、彼は皇家最大の裏切り者、だからねぇ。危なっ……!」
 その続きを言い終わらないうちに、いきなり上体を後ろに反らし、寸での所で何かを避けた。先程とは比べ物にならないほどの殺気が辺り一面に立ち込めている。
「そうか、麗嵐。お前もさらにその左眼の傷口を広げたいのなら、俺が協力してやろうか?」
 楊好が幻煙魔香炉を片手に、麗嵐にじりじりと歩み寄って行く。その姿は実に恐ろしく、冷徹で威圧的な声音だった。口調は穏やかだが、眼は決して笑っていない。麗嵐は慌てて両手を振って抗議した。
「待て待て、楊好。落ち着けって! 船の中で煙を撒き散らかすな!」
 船内で派手に暴れ回る二人。もはや完全に手が付けられない状態だ。部屋の床や壁に飾られた秘宝が次々と攻撃を受けて壊されていく。私は渡された毛布で零れ球を遮りながら、何とかその場をやり過ごすので精一杯だった。
 やがて、戦いも佳境へと差し掛かった頃。
「まったくもう、アンタが言うと、シャレも冗談に聞こえないんだけどね」
 麗嵐は息を切らしながら、散らかった周囲の惨状に気付いて頭を抱えた。せっかく集めたお宝がまた船の修理代に消えてしまう。そんなことは、楊好が率いる猫猫と組んだ時から当たり前の代償として覚悟はしていたつもりだった。それにしても、これはさすがに痛手だ。
「あのっ、あり、がとう。私も錬花も、人より治癒力は高いから、問題ない。感謝してる」
 自分でもビックリするくらい、珍しく声を張り上げていた。麗嵐と楊好、二人の視線が一斉に向けられて、身じろぎする。
「ほぉ……」
 楊好は、何やら意味ありげな声音で呟きながら、私をジッと見据えた。
 特に何をされるわけでもない。ただ頭のてっぺんから足の先まで物珍しげに見られているだけなのに、その舐めるような視線と含み笑いがどうにも落ち着かない。
「そういえば、お前、なぜあの場所にいた? あの一帯は、戦火だ。火眩の中でも、特に危険な領域のはずだが?」
 少しくすんだ赤い髪が僅かに解けて風になびく。もどかしいような、ちょっぴりくすぐったいような、おかしな感覚に囚われて、段々と身体が熱くなっていくようだった。眩暈までしてくる。
「それ、は……」
 私が俯きがちに返答しようとしたその時。
「船長! 玉珠鎖の船は、もう追って来ないみたいだよ。無事に撒いたようだ!」
 船の甲板の方からひょこっと顔を覗かせた一人の女性が、麗嵐に向かって大きな声で叫んでいた。どうやら彼女がこの船の舵を取っているらしい。
 水色の短髪と瞳。短剣を腰に差し、肩に本革のベルトを引っ掛けている。胸元の魚のペンダントが月明かりに反射して鈍く光った。
 ストライプのタンクトップとジーンズ生地のホットパンツ姿。頭部に巻いたピンクのバンダナには、麗嵐とお揃いのプラチナドクロのエンブレムが付いていた。いかにも海賊らしいボーイッシュな雰囲気だ。
 足早に船長の傍に近付くと、玉珠鎖の巡視船が遥か後方に見張りを立てているという目撃情報を報告していた。アンカーの紋章をシンボルとする呉乃の精鋭部隊は、海賊である麗嵐たちにとってまさに天敵。犯罪掃討を掲げる彼らと万が一にも遭遇したら、きっととんでもなく厄介なことになるであろう。
 まさか目の前にそんな危険が迫っていたなんて……。
 大切な錫杖をギュッと握り締めながら、チラっと楊好の方に視線を向けた。彼は無言で煙草を吹かす。辺り一面に再びあの甘い煙の香りがほのかに漂っていた。
「そうか。よくやったね。雪嶺」
 麗嵐の言葉に、雪嶺と呼ばれたその女性はフフンと得意そうに鼻を鳴らす。
「このまま進みな。夜明けまでにはアジトに着かねばならんからね」
「了解!」
 まるで気合いを入れるかのように、頭部のピンクのバンダナをキュッと結び直して自らの頬をパンパンと叩く。
 そして、雪嶺が持ち場へ戻るや否や、船はやがてゆっくりと動き始めた。
「よし、ひとまずは難を逃れたようだね」
 一同は安堵したように胸を撫で下ろして一息付いた。しばし無言で窓の外を眺める。
「話は後だ。デッキに戻るよ」
 麗嵐がポンと私の肩を軽く叩いて促した。彼らの後に付いて部屋を出る際、私は先程、楊好からもらった毛布を身体に羽織り、温もりに頬を紅潮させた。そして、ふと忘れかけていた錬花の様子を見舞うために、慌ててデッキの方へと向かうのだった。


Fin.


2019.9.16 ~ 2020.9.22

錬花と鳴花が猫猫に加わることになる少し前のお話。
今回は鳴花目線の展開だったけど、いつか他のキャラの視点からも書いてみたいです。

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